« ●3月30日号(マガジン) | トップページ | ●オーストラリア旅行補記 »

2011年4月 8日 (金)

●オーストラリア旅行(2011-3月)

●オーストラリア旅行

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/92/img057a2448zikfzj.jpeg"

width="800" height="600" alt="IH.jpg">

【出発前に……】

●オーストラリア

+++++++++++++++++++++

2011年、3月30日。

ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。

「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。

サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に

もどるように、私は心の源流にもどる。

それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず

返事が届いた。

アデレードで2泊の予定だった。

が、2泊ではとても足りそうにない。

それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。

が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。

そうなると、とても2泊では足りない。

+++++++++++++++++++++

●Rosin the Beau

 オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」

というのがある。

アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を

今でもソラで歌える。

しかし歌の題名がわからない。

YOUTUBEで調べてみた。

「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、

うまくヒットできなかった。

 が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。

正しくは、「Rosin the Beau」。

さっそくYOUTUBEで検索。

いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。

その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。

こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。

私はその歌を聴きながら、ポロポロと涙がこぼした。

そのときの情景が、そのままそこにあった。

私はちょうど40年前に、タイムスリップした。

 それを横で見ていて、ワイフがこう言った。

「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。

 私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。

「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。

やっとこの歌に、めぐり会えた。

ありがとう」と。

●1日が1年

 あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。

けっして大げさな言い方ではない。

本当に、そう感じた。

1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。

そんなある日のこと。

ちょうど3か月目のことだった。

私はこう思った。

「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。

うれしかった。

それがたまらなく、うれしかった。

 私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。

そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚く。

4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。

思い出がない。

あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。

そのため金沢での学生生活がかすんでしまう。

その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。

金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。

単調な生活。

スケールの小さな生活。

「学問」と言っても、暗記また暗記。

あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。

疑問をもてば、なおさら。

疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまっていた

だろう。

●不思議な世界

 そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。

地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。

興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。

私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば

よい。

 が、時代が変わった。

今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。

私たちが学生のころには、考えられなかったことである。

往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。

大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。

 私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。

日本には綿棒すら、まだなかった。

バンドエイドもなかった。

風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。

医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。

こんなこともあった。

 カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。

大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられている。

が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。

驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。

(地面だぞ!)

 あるいは冬の寒い日。

1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。

水着をもってくるように言われた。

今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、

オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター

といった。

自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と言っていた。

 で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という

オーストラリアでもっともよく食べられているパイを食べた。

その食べている間に、彼女は、水着姿になってしまった。

泳ぐためではない。

「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。

・・・などなど。

言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという

習慣は、当時の日本人にはなかった。

そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、

金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ

に出かけていた。

そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。

 ……こうして書き出したら、キリがない。

●常識論

 アインシュタインは、常識というのは、18歳までに作られる偏見であるという

ようなことを書いている。

たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。

そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。

が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。

それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。

ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。

 たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て

いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。

その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。

 では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。

15歳くらいか。

16歳くらいか。

それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。

少なくとも私は驚いた。

そのとき私は23歳だった。

ということは、やはり18歳前後ということになる。

(アインシュタインという人は、本当にすごい!)

 そのころまでに「常識」が形成される。

それがその人の意識の基盤になる。

ものの考え方の基盤になる。

●自由

 が、今では、高校生でも驚かない。

綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。

むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。

彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。

 話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。

が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。

彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの

だった。

たとえば職業観。

たとえば家族観。

たとえば人生観。

それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。

 当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。

「寄らば大樹の影」。

それが常識だった。

が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。

私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく

のに驚いた。

「家」に対する意識も、ちがっていた。

 私が大学で使ったテキストには、こうあった。

「日本は、君主(Royal)官僚主義国家」と。

が、これには私は反発した。

「日本は民主主義国家だ」と。

しかしだれも相手にしてくれなかった。

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。

今の今も、官僚主義国家。

首相以下、国会議員の大半は、元官僚。

県知事の大半も、元官僚。

大都市の知事も、これまた元官僚。

40年前の日本は、さらにそうだった!

●自由の意識

 もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。

それがよかったのか、悪かったのか。

現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。

この日本は、組織型社会。

組織に属している人は、実力以上の「得」をする。

たいした努力をしなくても、「得」をする。

今の公務員たちをみれば、それがわかる。

組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。

努力に努力を重ねても、「損」をする。

今の商工業界の人たちをみれば、それがわかる。

 「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。

しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を

おろしている。

そう簡単には、なおらない。

 が、あえて私は自由の道を選んだ。

たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。

その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。

 人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。

何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。

私のばあい、「生き様」を学んだ。

一編の論文を書いたわけではない。

もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。

オーストラリアという国は、私にはそういう国だった。

【バスの中で】

●3月30日、中部空港・セントレアへ

 「さあ、行くぞ!」と、バスの中。

エンジンがかかった。

時刻は6時10分。

行き先はオーストラリア。

メルボルン。

アデレード。

 タクシーの中でもそうだった。

今もそうだ。

震災の話も、原発事故の話もしたくない。

今は、そんな気分。

話したところで、どうにもならない。

堂々巡り。

愚痴。

不平、不満。

その繰り返し。

●浜松もあぶない?

 今回のオーストラリア行きは、去年から予定していた。

チケットの予約を入れたには、先月(2月)の終わり。

「こんなときに旅行?」と思う人もいるかもしれない。

が、震災の前から、今回の旅行は、予定していた。

どこか弁解がましいが、今回の震災(3月11日)とは関係ない。

が、その一方で、日本から脱出するという意識もないわけではない。

不幸中の幸いというか、今回の原発事故は「風」が幸いした。

事故以来、冬型の天気図。

風はずっと陸から海側に吹いていた。

 が、そんな「幸い」が、いつまでもつづくとはかぎらない。

風向きが変われば、東京だってあぶない。

浜松だってあぶない。

原発事故は、100キロ単位どころか、1000キロ単位で広がる。

●人災論

 今回の原発事故について、人災論が浮上してきた。

いくつかの人的なヘマが重なって、事故が拡大した。

処理が、長引けば長引くほど、そうだろう。

責任論が大きくなる。

原発は「作る」のは簡単。

「閉じる」のがむずかしい。

これは私の意見ではない。

世界の常識。

 つまり閉じ方も確立されていないまま、今回の事故が起きた。

ホースで水をかける程度の処理で、事故が収束するはずがない。

たとえば昨日(3月29日)になって、プルトニウム吸収剤を散布するとか(報道)。

そんな話が決まった。

しかしこの日本に、そんな吸収剤はあるのか?

 それにしても腹立たしいのが韓国。

「日本・危険説」をさかんに世界に向けて発信している。

●1970年

 ……またまた震災の話になってしまった。

やめよう。

こんな愚痴を書いても、何にもならない。

 私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年の3月。

大阪万博(1970)が始まる、その直前だった。

日にちはよく覚えていない。

1970年の3月3日か4日だった。

私はあえて各駅停車の飛行機に乗った。

世界中を見たかった。

もっとも当時の飛行機(DC-8)は、航続距離が短い。

香港とマニラで給油のため駐機した。

 はじめての香港。

はじめてのマニラ。

私は外国に降り立つたびに、自分の体が宙を舞っているように感じた。

●悪夢

 ワイフは横で、今しがたまで、何やらメモを取っていた。

どこかウキウキしている。

若いころからのんきな女性。

なにごとにつけ、楽天的。

おおらか。

だからこそ、私のワイフでいられた。

今回も、1か月も前から、旅行の準備をしたのは、私。

「まだ早いでしょ!」と。

何度もワイフに言われた。

 が、私は落ち着かない。

今でも悪夢と言えば、飛行機や列車に乗り遅れる夢。

29歳のとき飛行機事故を経験している。

それだけではないが、こうした強迫観念は、どうしようもない。

いつも何かに追い立てられている。

それがそういう悪夢につながっている。

●オーストラリアの秋

 窓の外は冬景色。

今年の冬は寒かった。

今も寒い。

 昨日、オーストラリアの友人に問い合わせた。

アデレードでは気温は、10度~30度という。

日本の気候にちょうど6か月を加えたのが、オーストラリアの気候ということになる。

が、実際には、オーストラリアの夏は暑い。

オーストラリアは、今が秋。

これから畑に種をまき、冬の間に小麦を育てる。

今ごろは緑の草原が美しく広がっているはず。

楽しみ。

●終着点

 今回の旅行は、旅行というより、人生のしめくくり。

ワイフのことは知らないが、私はそうとらえている。

ちょうど41年。

オーストラリアでの学生生活を「出発点」とするなら、今が「終着点」。

その41年を、何とか乗り切った。

生き延びた。

 私の人生を総括すると、そうなる。

つまり自由業というのは、そういうもの。

「自由」というのは、そういうもの。

だれにも頼らず、たったひとりで生きる。

が、充実感は、それほどない。

私のばあい、いつもハラハラしながら、生きてきた。

今の今も、そうだ。

こういう旅行をしながらも、別の心では、すでに帰国後のことを考えている。

あるいは、そのころ、日本はさらに混乱しているかもしれない。

 またまた原発事故の話になる。

今のやり方では、だめ。

●フンギリ

 「フンギリ」という言葉がある。

「糞切り」と書くのか。

どこかでフンギリをつける。

そのフンギリが感じられない。

 事故直後から、廃炉を覚悟すべきだった。

廃炉を覚悟で、処理に取りかかるべきだった。

が、それを何とか原子炉を残そうとした。

今の今もそうだ。

原子炉内への注水とタービン室の排水。

この2つを両立させようとしている。

が、このやり方では問題は解決しない。

へたをすれば、両倒れ。

私なら、海はあきらめ、原子炉のメルトダウンだけを考えて対処する。

海の汚染は、まだ何とかなる。

しかし原子炉がメルトダウンし、原子炉が爆発したら、万事休す。

死の灰は、日本中に降り注ぐ。

●自由

 話は脱線したが、「自由」というのは、そういうもの。

損と得が、いつも隣り合わせになっている。

損にこだわっていたら、自由にはなれない。

深みにはまり、やがて身動きが取れなくなる。

フンギリをつけるときは、つける。

それが身を軽くする。

今回の原発事故には、そのフンギリがない。

つまり卑しき役人根性。

「やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。

あとは責任逃れ。

そればかり。

アーア、また愚痴になってしまった!

●自由業

 自由業について、一言。

 今、この日本で、自由業と言えるような自由業というのは、ほとんどない。

農業にしても漁業にしても、補助金漬け。

補助金がなければなにもできない。

どう補助金漬けになっているかは、その世界の人なら、みな知っている。

町の小さな企業ですら、いかに公的機関の仕事を多く受注するかで、命運が決まる。

土建業を例にあげるまでもない。

つまりみながみな、「国」にぶらさがっている。

また「国」にぶらさがらないと生きていかれない。

 一方、私など、補助金の「ホ」も手にしたことがない。

国からそれらしきものを手にしたのは、出産時の祝い金だけ。

3人の息子たちが産まれるたびに、それをもらった。

10万円x3=30万円!

計30万円!

 だからこう言う。

「生き延びた」と。

●究極の選択

 人生には、潮時というものがある。

今が、そのときかもしれない。

私も63歳。

団塊の世代、第一号。

 ここでいつも究極の選択に迫られる。

(1)    健康な間に、好き勝手なことをする。

(2)    死ぬまで今のまま、がんばる。

 「好き勝手なこと」というのは、私の夢を果たす。

私には私の夢があった。

そう、あのとき私は、オーストラリアに移住したかった。

留学生活が終わったとき、そのままオーストラリアに残りたかった。

が、それができなかった。

郷里の母が、今にも死にそうな声でこう言った。

「帰ってきておくれ」「帰ってきておくれ」と。

 が、今ならそれができる。

だれにも遠慮せず、好き勝手なことができる。

ワイフも、それを言う。

「移住しましょうよ」と。

 おかしなものだ。

オーストラリアを知らないワイフのほうが、積極的。

どうしてだろう?

【セントレア空港で】

●シンガポール航空

 シンガポールからメルボルンまで、A380。

わかるかな?

エア・バス380だぞ。

世界最大の旅客機。

「2階席にしますか、1階席にしますか?」と聞かれた。

それでそれを知った。

もちろん私はこう答えた。

「2階席に」と。

 今や、シンガポールがアジアの中心。

東京ではない。

シンガポール。

1人当たりの国民所得でも、すでに日本は追い抜かれている。

だからそういう飛行機でも買うことができる。

世界最大の旅客機。

「日本は負けたね」とワイフに言うと、ワイフもあっさりとこう認めた。

「とっくの昔にね」と。

●ラウンジで

 出発まで1時間半。

ワイフラウンジで、軽い朝食。

意外と白人が少ない。

前後左右、みな、ジャパニーズ。

これも原発事故の影響か?

そんな印象をもった。

 が、うるさいことといったらない。

右横の家族は、ギャーギャーと大声で騒ぎあっている。

祖父母らしき両親を中心に、2人の娘と1人の息子。

それにその子どもたち(孫)。

その孫が4人。

 その向こう隣には、同じような組み合わせの家族。

子どもはいないが、やはり大声で騒ぎあっている。

のどかとは言いがたいが、平和な風景。

 それにしてもうるさい!

●うるさい

 左横の家族は、グアムへ行くらしい。

「グアム」と書いた大きな雑誌を開いたり、閉じたりしている。

さらにその向こう側の2人連れは、何やらを書類に書き込んでいる。

若い方の女性が、「ここはこう……」というような言い方で、もう1人の女性に指示

している。

 「あと1時間……」とワイフが言った。

搭乗ゲートは、14番。

一番、端。

今、右横の家族を見たら、そちらは「韓国」と書いた本を読んでいる人がいた。

あのうるさい家族は、韓国へ行くらしい。

韓国でも同じように騒ぐのだろうか。

 「早めに14番ゲートへ行くか」と私。

「うん」とワイフ。

ここはう・る・さ・い。

子どもたちまで、ギャーギャーと騒ぎ出した。

●14番ゲートで

 

 目の前に58インチのテレビがある。

震災で犠牲になったアメリカ人教師の話をしている。

右下の案内には、「日本人を愛したアメリカ人教師」とある。

「生徒の無事を確認したあと、津波に……」と。

名前は、テイラー・アンダーソンという。

そのテイラー・アンダーソンに対する義援金募集をしている。

 今度の津波で、多くの外国人も行方不明になっているという。

たぶん、もう生きてはいないだろう。

今の日本から、震災、津波、原発事故の話から逃れることはできない。

どこへ行っても、だれと話しても、その話ばかり。

●A330ー300

 飛行機に乗ると、すぐ、映画、「ガリバー旅行記」を観た。

おもしろかった。

で、すぐ食事とつづき、そのあと、睡魔。

1時間ほど、眠った。

 時刻は日本時間で、午後2時23分。

もう4時間も乗っている。

日本との時差は、ちょうど1時間。

シンガポールは、午後3時23分。

 機種は、エアバス330。

いろいろ頭の中をさぐってみるが、エアバスに乗るのは、これがはじめて?

ボーイング社の飛行機とは、内装が微妙にちがう。

ざっと見たところ、新品。

車でいえば、新車。

汚れもなく、真新しい。

30~40年前には、アジアの国々は、みな、日本が払い下げた中古機を使っていた。

フィリッピン航空の飛行機などは、窓枠がさびていた。

が、今は、ちがう。

この世界も、すっかり様変わりした。

 画面にそのつど時速(対地速度)が表示される。

それによれば、518マイル(833km)とか。

ボーンイング777や747よりは、遅い?

このあたりは、いつも強い向かい風を受ける。

そのせいかもしれない。

●さらば、日本!

 若いときからそうだ。

だから、どうかそういう私を責めないでほしい。

私は若いときから飛行機に乗り、離陸したとたん、こう思う。

「さらば、日本!」と。

とたん、日本のことを忘れる。

小さな国。

それが日本。

何かにつけ、わずらわしい国。

それが日本。

 そのクセが今も残っている。

「さらば、日本!」と。

今、私ははじめて、震災や津波、それに原発事故を頭の中から振り払うことができた。

この2週間、本当に重かった。

「重い」というよりショック状態。

ゆううつな気分が、四六時中、頭の中を離れなかった。

……ということは、逆に、帰国するとき、どんな気分になるのだろう。

それが心配。

●『東洋航路』

 シンガポールまで、あと約2300キロ。

頭の中で計算する。

あと約3時間。

 これも私のクセ。

シンガポールへ行くたびに、W・サマーセット・モームの書いた『東洋航路』という

本を思い出す。 

東南アジアへの旅行記である。

学生時代、無我夢中で読んだ。

どこかの港での描写が、鮮明な記憶となって残っている。

それもあって、私は東南アジアが好き。

タイ、カンボジア、ベトナム、シンガポール、そして香港……。

どの国も好き。

違和感を覚えない。

 

●非国民

 ああ、今、本当に日本のことが頭から消えた。

震災で苦しんでいる人には申し訳ない。

原発事故と懸命に戦っている人には申し訳ない。

しかし今の私は、やっとその憂うつ感から解放された。

やっと気が楽になった。

 こういう私のような日本人を、「非国民」というのか。

わかっている。

しかし総じて言えば、……つまり私の過去を振り返ってみれば、日本は日本。

いろいろがんばってはみたが、私はいつもはじき飛ばされてばかりいた。

つまり相手にされなかった。

ほとんどの日本人は、「日本は自由な国」と思い込んでいる。

しかしどこに「自由」がある?

自由もどきの自由、つまり「自由」という幻想を信じているだけ。

自由に生きる人間を認めない。

その価値を認めない。

 ある新聞社の記者(女性)は、私にこう言った。

「林さん(=私のこと)、私たちはあなたのような人が、成功してもらっては

困るのです。

あなたのような人が成功するのを見ると、私たちは自己否定しなければなりません」と。

 「組織」という「束縛」の中で、みな、体中をがんじがらめに縛られている。

縛られているという意識さえないまま、縛られている。

またそれ以外に生きる道がない。

あの日本では……。

●官僚主義国家

 では、私には愛国心はないのか?……ということになる。

が、私にとって愛国心とは、「民」をいう。

「土地」をいう。

「国」ではない。

頂点に「天皇」がいて、その下に官僚制度がある。

その官僚制度が、日本という「国」の柱になっている。

日本が民主主義国家と思っているのは、私たち日本人だけ。

 日本という国は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。

今の今も、官僚主義国家。

そんな官僚主義国家を愛せよと言われても、私にはできない。

日本人も日本の文化も好き。

しかし「国」となると、どうしても好きになれない。

●自由と依存性

 41年前、オーストラリアに渡った。

毎日が驚きの連続だった。

が、その中でもオーストラリア人のもつ、あの「自由」には驚いた。

ある日、友人に招待され、小さな町に行った。

そこでのこと。

車の中にいっしょにいた中学生くらいの友人の弟が、こう言った。

「ヒロシ、あの橋には、X万ドルもかかったんだよ。無駄な橋だよ」と。

 これには驚いた。

そんな中学生ですら、税金の使われ方に目を光らせている。

一方、私たち日本人には、それがない。

万事、お上(かみ)任せ!

何かといえば、「国が……」「国が……」と。

何でも国がしてくれるものと、思い込んでいる。

その依存性こそが問題。

隷属意識と言い換えてもよい。

そういう精神構造を、「甘えの構造」ともいう。

つまり自由と依存性は、相克(そうこく)関係にある。

依存性が強い分だけ、自由への意識が薄い。

自由への意識が薄い分だけ、依存性が強い。

●キャンピング

 オーストラリアの学校には、「キャンピング」という科目がある。

「選択科目ですか?」と聞いたら、「必須科目」という。

つまり原野でも、ひとりで生きていかれる。

そんな子どもを育てるのを、オーストラリアの学校は目標としている。

 そのこともあって、オーストラリア人は、独立心が旺盛。

私が学生だったころでも、親のスネをかじって大学へ通っている学生は、さがさなければ

ならないほど、少なかった。

今は、もっと少ない。

奨学金を得るか、借金をするか、あるいは働くか。

それぞれがそれぞれの方法で大学へ通っていた。

友人の1人は、1年働き、1年大学へ通い、またつぎの1年働き……ということを繰り返

していた。

 その友人は、あいた時間を利用して、下着のセールスをしていた。

車のトランクの中に女性の下着をいっぱい詰めこんでいた。

●よみがえる思考回路

 おもしろい現象である。

飛行機でオーストラリアに近づくにつれて、忘れていた記憶がどんどんとよみがえって

くる。

あのころの自分が、そのまま戻ってくる。

思考回路まで、戻ってくる。

それに英語まで戻ってくる。

 日本で英語を話すと、このところ大きな疲労感を覚える。

が、今は、それがない。

この飛行機の中では、日本語のほうが、かえって話しにくい。

体で示すジャスチャまで、英語式。

オーストラリア式。

●機内サービス

 今回は、シンガポール航空を利用した。

オーストラリアへ行くときは、いつもカンタス航空を利用している。

戦後、一度も航空機事故を起こしていない。

世界でもっとも安全な航空会社。

それについてオーストラリアの友人に確かめると、こう教えてくれた。

「オーストラリアはオーストラリア独自の安全基準を作った。

世界の僻地(へきち)だったから、万事、手探りで、そうした」と。

つまりほかの国々のことがわからなかったから、独自の安全基準を作った、と。

それがかえって幸いし、今にみるカンタス航空を育てた。

 で、今回はシンガポール航空。

料金は、日本のJ社のそれより、やや安いといった程度。

(J社は、お高くとまりすぎ!)

現在、高級化路線を歩んでいるが、やがて裏目に出るはず。

ボロボロの飛行機を使って、高級化路線もない。

バカげている。

今度の震災以後、30%も客足が落ちているという(2011年3月)。

 一方、破竹の進撃を繰り返しているのがANA。

エアバス380の導入も決めている。

ボーイング787の購入もすませている。

 ワイフがこう言った。

「スチュワーデスの体型がみな、同じね」と。

みな、細く、スラリとしている。

それに美人ぞろい。

「きっと体型に関する機内規程があるんだろうね。

体重が50キロを超えたら、クビとか……」と。

美しいだけではない。

サービスも、たいへんよい。

ワインもビールも飲み放題。

先ほど座席の移動を頼んだら、こころよくそれに応じてくれた。

窓際の席から、4席あいている中央列の席に移動した。

【チャンギ空港にて】

●日本のニュース

 チャンギ空港では、乗り継ぎのための時間が、4時間半もあった。

その間に軽い食事。

何本か、飲み物を口にする。

 テレビではアメリカのニュース番組をそのまま流していた。

しばし、それに見入る。

 フクシマの原発事故も、アメリカでは経済ニュース。

もっぱら経済的な視点で論じられていた。

「損失はいくら……」とか、「復興費はいくら……」とか、そんな話ばかり。

すでに世界では、チェルノブイリ、スリーマイルと並び、世界の三大原発事故に

並べ始めている。

 そのニュースを見ながら、こんなことを考える。

もし戦後、沖縄が香港になり、東京がシンガポールになっていたら、今の今も日本は、

押しも押されぬ世界の経済大国として君臨していただろう、と。

沖縄を香港化すべきだった。

東京をシンガポール化すべきだった。

今や東証に上場している外資企業は、1けた台。

10社もない。

一方、シンガポールには、数百社以上。

チャンギ空港は、ハブ空港として、世界の経済の中継地になっている。

ラウンジで知り合ったイギリス人は、イギリスから来て、ここシンガポールで

飛行機に乗り換え、オーストラリアに向かうということだった。

どうしてそれを羽田でしないのか?

羽田で乗り継がないのか?

航路的にも、(イギリス)→(北極)→(羽田)→(オーストラリア)のほうが、

短い。

●日本vs外国

 シンガポールまで来ると、こう考える。

「何も、日本にこだわる必要はないのではないか」と。

ワイフも同意見。

世界の人たちは、もっと自由に、「国」を考えている。

EUを例にあげるまでもない。

言い換えると、日本も、外国をそういう目で見る必要がある。

「日本だ、外国だ」と、垣根を高くすればするほど、日本のほうが世界ののけ者に

なってしまう。

 わかりやすく言えば、日本で仕事がなくなれば、外国へ行けばよい。

外国で働けばよい。

そのあたりを、もっと気楽に考えたらよい。

ラウンジで会ったイギリス人の男も、そう言っていた。

親や兄弟は、オーストラリアに住んでいる。

が、自分の家族はイギリスに住んでいる。

たがいに行ったり来たりしている、と。

●A380

 目を覚ますと、アデレード上空まで来ていた。

眠ったのか、眠らなかったのか、よくわからない。

何かの夢を見たようだが、よく覚えていない。

シンガポールとメルボルンの時差は3時間。

私が目を覚ましたのを見ると、ワイフがこう言った。

「星空がきれいだった」と。

 星と言えば、南十字星。

サザン・クロス。

オーストラリアへ着いたら、真っ先にワイフにそれを見せてやりたい。

【メルボルンにて】

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/93/img4cf8fa36zik3zj.jpeg"

width="800" height="600" alt="メルボルン2.jpg">

 空港からはデニス君の車で市内に向かった。

そのままインターナショナルハウスへ。

ボブ君が、ゲストハウスを予約しておいてくれた。

荷物を置いて、そのままデニス君の家へ。

車で1時間ほど。

カーネギーという地名。

 ……仙台市のことを「杜(もり)の都」という。

豊かな街路樹に覆われ、夏でも涼しげな森の影をつくってくれる。

が、もしあなたがメルボルンを見たら、「杜」の概念が変わるだろう。

とくにこのローヤルパレード通りを見たら、変わるだろう。

どう変わるかは、ここに書けない。

書けないが、変わるだろう。

昔からこう言う。

メルボルンの中に、公園があるのではない。

公園の中に、メルボルンがある、と。

 カーネギーでは、数時間を過ごした。

その間、ワイフは、2時間ほど、友人の家で眠った。

私たちは、つまりデニスとボブと私は、いろいろ話した。

で、ワイフが起きたのをみはからって、近くの日本料理店へ。

最近開店したという。

私とデニスは、オーストラリア式の天丼。

ボブは、オーストラリア式のうな丼。

ワイフは、これまたオーストラリア式の牛丼を食べた。

 どれも日本的というだけで、日本のものとはちがう。

また値段にしても、天丼よりうな丼のほうが安かったのには、驚いた。

AS$で、8~9ドル前後だった。

「このあたりには、モナーシュ大学の留学生が多く住んでいる。

だからこういう店が多い」と。

 通りには日本料理店のほか、ベトナム料理店、マレーシア料理店、

中華料理店などが並んでいた。

帰りに私とワイフは、八百屋で、果物を何種類か買った。

イタリア風(ギリシャ風?)の八百屋で、一種類ずつ大きなコーナー

に、山積みにして売っていた。

●ワイフの印象

 ワイフはメルボルンの街並みを見ながら、「ディズニーランドみたい」と言った。

1度や2度ではなく、何度もそう言った。

家々の形や色、それがディズニーランドのそれみたい、と。

 人によってメルボルンの印象はちがうだろう。

「おもしろい見方だな」と私は思った。

が、そのうち私も、そういう目で見るようになった。

「たしかにそうだ」と。

 家々の中には、子どもが喜ぶようなアトラクションこそないが、無数の見知らぬドラマ

が詰まっている。

たとえば車の中から見かける電車にしても、バスにしても、異国風というよりは、ディズ

ニーランドのそれ。

カラフルで、それが秋の白い陽光を受けて、まぶしいほどに輝いていた。

●インターナショナル・ハウス

 イギリスのカレッジ制度の説明をするのには、時間がかかる。

日本で考える「寮」とは、趣をかなり異にする。

また日本で考える「寮」をそのまま当てはめて考えてはいけない。

簡単に言えば、「ハリーポッターの世界」。

全寮制であると同時に、カッレジ自体が大学の機能を分担する。

ほかのカレッジから学生がやってくることもある。

もちろんその反対のこともある。

食事は毎回、フルコース。

学生たちはローブと呼ばれるガウンを身につけ、食事に臨む。

もちろん正装。

当時は、そうだった。

 が、その後オーストラリアも、変わった。

政権が変わったり、不況を経験したりした。

「予算が削られた」というような理由で、簡略化された。

が、何よりも変わったのは、男女共学になったこと。

若い女子学生が多いのには、戸惑った。

私たちの時代には、男子専用のカレッジだった。

●ハイテーブル

 私は寮長の横、つまりハイテーブルで食事をすることになっている。

食堂は、大きくハイテーブルとローテーブルに分かれる。

数段高い位置にあるのが、ハイテーブル。

アンダーグラジュエイト(一般大学生)が座るのが、ローテーブル。

もしそれもよくわからなかったら、映画の1シーンを思い出してほしい。

そこはまさに「ハリーポッターの世界」。

 そういう意味では、あの映画はカレッジ制度を理解するのには、役立つ。

メジャーな教育は、大学構内の中で受ける。

それ以外のマイナーな教育は、カレッジで受ける。

カレッジでの教師はチューターと呼ばれる。

そのチューターたちが、アンダー・グラジュエイト(大学生)の教育をする。

●1970年

 1970年。

大阪で万博が開かれた年である。

その年に私はメルボルンに向かった。

正田氏(美智子皇后陛下の父君)が、「どこの大学にしたいか」と聞いた。

私は迷わず、「メルボルン大学」と答えた。

すかさず正田氏が聞いた。

「どうしてだ」と。

 私はさらに胸を張ってこう答えた。

「日本からいちばん遠いからです」と。

 その当時の人口は、300万人。

そんなメルボルン市にも、日本人の留学生は、私1人だけ。

通産省から1人、研修生が来ていたが、彼は数か月で帰ってしまった。

 当時の日本人は、それなりの人物による身元引き受け人がいないと留学が

できないしくみになっていた。

その身元引き受け人に、正田氏がなってくれた。

●アルバイト

 日本円に換算すると、当時の寮費は、月額20万円前後。

1ドルが400円の時代だった。

また大卒の初任給が、やっと5万円に届いたころ。

往復の飛行機料金(羽田・シドニー間)が、42万円前後。

それだけでも、私には気が遠くなるような金額だった。

 が、アルバイトができなかったわけではない。

日本領事館の井口氏や、M物産の支店長らが、そのつどアルバイトを回して

くれた。

たいていは観光案内。

日本からやってくる政治家や実業家を、案内して回る。

その中には、たまたまハイジャック事件で北朝鮮に渡った、山村運輸政務次官もいた。

あの事件のあと、山村氏は、メルボルンにしばらく身を隠していた。

理由は、聞いていない。

なおアルバイト料はあとから受け取ったが、それよりも日本料理を腹いっぱい食べ

られるのが、何よりもうれしかった。

当時、コリンズ通りだったと思うが、路地を入ったところに一軒だけ、日本料理店が

あった。

当時の日本料理は、それこそひとつが、?万円を超えるほど、高級料理だった。

まぐろの刺身にしても、そのつどコック長が、マグロをそのまま席へもってきて、

どこを食べるか聞いた。

 私はすぐその料理店のみなと、親しくなった。

●ゲストルーム

 ゲストルームは、ハウスの裏手にあった。

部屋は4ルーム。

2つのベッドルームのほか、キッチンや談話室が備わっていた。

実のところ、私も、そんなところにゲストルームがあるとは、知らなかった。

ハウスには、毎週のようにノーベル賞級の学者がやってきて、私たちといっしょに

生活した。

そうしたゲストたちが、そこに泊まっていた。

が、今回は、私たちの番。

いつもそう思うのだが、オーストラリアでは、すべてが大ざっぱ。

シャワーにしても、ザーッと水が出るというよりは、ドカーッと出る。

タオルに石鹸をつけて体を洗おうとしても、石鹸のほうが先に落ちてしまう。

こちらの生活に慣れるには、それなりの時間がかかる。

●家具

 家具も、大ざっぱ。

日本的なこまかい細工はない。

ないかわりに、しかしどれも本物の木材を使っている。

ベットの横に小さな小物戸棚があるが、ワイフは動かすことすらできなかった。

ドシンと重かった。

「100年先、200年先を考えて、こういう家具を使っているのだね」と私が言うと、

ワイフも、「そうねえ」と。

どこか感慨深そうだった。

年数がさらに重みをます。

 このゲストルームにしても、100年近く前に建てられたもの。

外観は古いが、あちこちに歴史的な重みを感ずる。

加えて、独特の、あのにおい。

白人の体臭というか、なめし皮のにおい。

床のジュータンと、乾いたペンキのにおい。

そのにおいに包まれると、そのまま41年前にタイムスリップしてしまう。

●食事

 夕食は6時半から。

この時刻は、41年前と変わっていない。

私とワイフは、寮長(ウォードン)の横に並んで座った。

たまたまホッケーで活躍した女子学生たちも、ハイテーブルに並んだ。

 最初のスピーチで、寮長が私たちのことを紹介した。

「41年ぶりに、この2人の紳士がこのハウスに泊まります」と挨拶すると、食堂から

拍手がわいた。

うれしかった。

私の名前も写真も、ハウスの記録の中に残っていた。

うれしかった。

●話題

 「日本」というと、すぐ「津波」と「原発事故」の話になる。

私は冗談を交えながら、話題をそらした。

寮長も、対面して座った女子学生たちもそれを知って、話題を変えた。

 不思議なものだ。

ハウスに入ったとたん、ワイフにまで英語で話しかけている。

へたくそな英語の上に、あのオーストラリアン英語。

わかってくれたのかどうかはわからない。

そのつどワイフも、英語で答えてくれた。

 このハウスでは、アジア人でも外国人。

日本人的な顔をしていても、外国人。

ワイフもその外国人に見えた。

……というか、日本語と英語を同時に話すのは、疲れる。

本当に疲れる。

【4月1日】

●花博覧会(4月1日)

 たまたまメルボルン市で、花博覧会が開かれていた。

今日の目的は、その花博覧会を見ること。

 ボブとデニスが案内してくれた。

ワイフはやや疲れ気味。

私たちはローヤルパレード通りをシティ(町)のほうへ歩き、

そこからトリィニティ・カレッジを通り抜けた。

中世の城を思わせるカレッジである。

このカレッジだけで、ひとつの大学がすっぽりと入ってしまうほど広い。

通りがかった人(教授?)に人数を聞くと、270人の学生と30人の

ポスト・グラジュエイト(修士・博士課程)の学生がいるとのこと。

そう教えてくれた。

 それから一度、大通りに出て、花博覧会に向かう。

●馬車

 花博の会場からは、トラム(市内電車)で、フリンダース駅に向かう。

日本で言えば、新宿のようなところ。

その前に、あの荘厳な、St.ポール大寺院がある。

 4人で入る。

「写真を撮っていいか」と聞くと、売店の女性が「いいです」と言った。

しかし私は撮らなかった。

あまりにも畏れおおい。

その荘厳さに圧倒された。

 大寺院から出たところに、2頭だての馬車が泊まっていた。

さっそく料金を交渉。

4人で100ドルでよいと言った。

加えて20ドルのチップ。

120ドルを渡した。

 御者は気をよくして、街中をあちこち回ってくれた。

私たちは、1時間ほどかけ、ハウスに戻った。

●会食

 夜はデニス君が夕食に招待してくれた。

デニス君の娘が2人と、婚約者が来ていた。

私たちはスキヤキを食べた。

 日本的なスキヤキといった感じだった。

ネギの代わりに、タマネギを使っていた。

焼き豆腐の代わりに、ふつうの豆腐を使っていた。

肉はもちろん赤肉。

霜ふり肉など、このオーストラリアにあるはずもない。

 「日本にスキヤキと同じか?」と、数回聞かれた。

「シミラー(similar=似ている)」と答えた。

「日本のスキヤキに似ている」という意味で、そう言った。

 その席で、デニスの娘のタミーが、「結婚式に来てほしい」と言った。

「いいよ」と答えた。

ハネムーンは、日本へ来るという。

「日本ではぼくがめんどうをみてあげるよ」と言うと、うれしそうに

笑った。

フィアンセの名前は、Luke(ルーク)という。

以前から私は彼のことを、「スカイウォーカー」と呼んでいる。

映画『スターウォーズ』の主人公の名前が、ルーク。

それでそう呼んでいる。

●4月2日

 4月2日、朝早く起きて、サザン・クロス駅に向かう。

昔は「スペンサーSt.駅」と呼んだ。

そこからオーバーランド号に乗って、友人の自宅のあるボーダータウンに

向かう。

 いつ走り出すともわからない列車。

平均時速は85キロとアナウンスされたが、その速度もなかった?。

ノロノロ……というか、ガタンゴトン……といったふう。

 やがて2人の若い男がやってきて、朝食の注文を取りにきた。

私たちは一番値段の高いのを注文した。

高いといっても、12ドル前後。

●メルボルンからジーロンへ

 以前とは列車の走るコースが変わっていた。

以前は一度バララートへ出て、そこからアデレードに向かった。

今は、一度ジーロンまで南下し、そこからアデレードに向かう。

友人の話では1995年に変わったという。

列車の線路幅も、そのとき現在の線路幅になったという。

 ジーロンはこのあたりの工業地帯。

以前は羊毛の輸出港として栄えた。

昨夜日本料理店へ招待してくれたデニス君の生まれ故郷でもある。

途中、ジーロン・グラマー・スクールがある。

デニス君は、その学校に幼稚園児のときから、高校2年生まで通った。

そこで1年飛び級をし、メルボルン大学へ。

修士号を得た後、今はモナーシュ大学で働いている。

 皇太子の娘の「愛子さん」も、一時は、この学校に通うという話が出た。

その話はどうなったのか。

●田園風景

 それからは5時間あまり、単調な田園風景がつづく。

行けども行けども、牧場と穀倉地帯。

4月ということもあって、つまりオーストラリアでは秋ということも

あって、枯れた平原。

 気が遠くなる……というより、ぼんやりと見ていると、眠くなる。

ワイフも、私も、ときどき眠った。

 昼食も同じようにして、とった。

私たちはみな、いちばん値段の高い料理を注文した。

●人間臭さ

 サザン・クロス駅の話に戻る。

日本でいう車掌たちが、自由な服装をしてたがいに話し込んでいた。

日本では見られない光景である。

ワイフは目ざとくそれを見て、こう言った。

「ズボンだけは同じみたい」と。

 私は「何とだらしないことよ」と思った。

が、やがて私の常識のほうがおかしいことを知った。

 車掌は、名簿から私たちの名前を見つけると、楽しそうに話しかけてきた。

それ以後、私たちを見ると、ファーストネームで私たちを呼んでくれた。

が、何と言っても驚いたのは、ジーロン駅でのこと。

オーバーランド号は、20分も早く、ジーロン駅に着いた。

車内アナウンスが、「ここで17人の客を乗せる」と言った。

 列車はしばらくそこに停まった。

曜日によって、市内を回るコースと、郊外の駅を回るコースがちがうらしい。

が、その17人が乗った。

とたん列車が動き出した。

時刻表も、客しだい。

 つまり、それを「自由」という。

日本では、考えられない。

【ボーダータウンにて】

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/94/img6b3f3c1fzikbzj.jpeg"

width="800" height="600" alt="オーストラリア3.jpg">

●ジューン

 ボーダータウンには、ボブの母親が迎えに来てくれていた。

今年84歳になるが、シャキシャキとしているのには驚いた。

話し方も、41年前と同じ。

名前をジューンという。

私はいつも「ジューン」と呼んでいる。

5、6年前に、一度、日本へ来てくれたことがある。

そのときは、長野を案内した。

 そのときのこと。

ジューンは日本式(スリッパ型)のトイレの使い方がわからず、苦労した。

楽しい思い出がどっとよみがえってきた。

●1・6エイカー

 ボブの家の敷地は、1・6エイカーもある。

16000平方メートル。

坪数に換算すると、約5000坪。

どんな広さかといっても、文では表現できない。

見たままの広さということになる。

 が、このあたりでは平均的。

「平均的」ということは、平均的。

町の中では、200~300坪的の家もあるが、郊外へ足を延ばすと、10エイカー

前後の家はいくらでもある。

町の中で中華料理店を開いているT氏の家は、見渡すかぎり、彼の敷地。

その一画を囲んで、自宅の敷地としていた。

 遊びに行くと、裏手に牧場があった。

羊が、30~40頭、群れをつくっていた。

「あなたの羊か?」と聞くと、「だれかが勝手に草を食べさせている」と。

 ボブの家も。その一角をフェンスで囲み、自宅としている。

「囲む」ということは、日本風に言えば、「垣根」ということになる。

その垣根の中では、芝生がこの時期でも青々と育っている。

家に着くと私は何枚か、写真を撮った。

●物価

 オーストラリアへ来て驚いたのは、物価が高いということ。

自動販売機で買う飲食物にしても、3ドル~3・5ドル前後。

現在の為替レートで計算しても、240~290円。

量はやや多いが、だいたい2倍前後とみてよい。

(現在、1オーストラリアドル=94円前後。)

 言い換えると日本円が、それだけ弱いということ。

本来なら、つまり同等になるためには、1ドル=50円前後が妥当。

さたに言い換えると、日本ではその分だけ、「無駄」が覆いということ。

 公共施設は立派だが、民家はボロボロ。

オーストラリアでも、ある程度の差はあるが、国の富が一般家庭にまで、

平等に行き渡っている。

それでもオーストラリアの人たちはみな、こう言う。

「オーストラリアも官僚主義的になってきた」と。

 わかりやすく言えば、こういうこと。

本来なら、1本50円前後で買えるはずのジュースを、日本人は120円で

買っている。

税金だか何だか知らないが、無駄な人に無駄な仕事をさせておくために、

そうしている。

そういう矛盾が、こういう国へ来てみると、よくわかる。

●夕食

 夜、ジューンさんが、夕食に招待してくれた。

料理は、ケーキとピザ。

イタリア人の女性も来ていた。

話しは、メルボルンで食べた日本食になった。

それについて話すと、そのイタリア人、名前をサンタと言ったが、

サンタはこう言った。

 「オーストラリアではピザにパイナップルをのせているのには、驚いた」と。

「日本でもパイナップルをのせる」と話すと、「イタリアではのせない」と。

それぞれの国では、それぞれの国の人に舌にあわせて、料理を作り変える。

それはそれでよいことかもしれない。

 なおイタリアでは、「ロメオとジュリエット」のことを、「ジュリエッタとロミィオ」と

言うのだそうだ。

「オーストラリアへ来て、いろいろなものが、逆になっているのを知って驚いた」と。

ほかにもいろいろな例をあげて、話してくれた。

●原稿

 実は、この数日、原稿を書いていない。

現在は、4月6日。

旅行最終日……というか、午前の便で日本へ帰ることになっている。

時刻は午前3時(南オーストラリア時間)。

 忙しくて、自分の時間がもてなかった。

が、今朝は3時に目が覚めてしまった。

ワイフが時計を読みまちがえた。

あるいは、私が聞きまちがえた。

「6時?」と思って起きたら、3時だった。

今朝は、ワイフのために簡単にアデレード市内の観光をすませ、そのあと空港に

向かう。

●中華料理店

 先にボーダータウンの中華料理店について書いた。

経営者は、45歳になるT氏。

あの天安門事件のときには、北京大学にいた。

そのあとオーストラリアに逃げてきて(?)、しばらくシドニーに住んだという。

ボーダータウンに移り住んだのは、そのあと。

 その中華料理店は、木、金、土、日の4日だけ開いている。

しかも午後4時以後のみ。

それでいて郊外には、日本人の常識では考えられないような大豪邸に住んでいる。

敷地の広さは先にも書いた。

が、家の広さにも度肝を抜かされる。

居間だけでも、日本的に言えば、40畳前後。

どの部屋も、20畳前後。

そういう部屋が、居間を取り囲んで、10室前後もある。

 家全体を遠くから見ると、小さく見えるのは、それだけ天井が高いから。

「どうしてこんないい生活ができるのか?」と思いながら、その一方で、「日本人は

どうしてこんないい生活ができないのか?」と。

理由は、あなたの家の近くにある公共施設を見れば、わかるはず。

 いいか、日本人!

私たちは、本来なら、もっとよい生活ができてもよいのだぞ!

税金を安くして、その分のお金を私たち自身に使わせてほしい。

……とまあ、またまた愚痴。

やめよう、こういう話は……。

●老人村

 ボーダータウンにも、「老人村」というのがある。

「オールドマン・ビレッジ」という。

町の一角全体が、その老人村になっている。

 「村」といっても、もちろん日本的な「村」ではない。

ごくふつうの住宅街。

1棟に2家族、もしくは1人ずつが住んでいる。

 で、その村の中には、幼稚園がある。

「老人は幼児が好きだから」と。

また道をはさんで、そのとなりには、日本でいう「特別養護老人ホーム」もある。

歩けなくなったような老人は、そのホームに移り住む。

 「オールド・マン」という言い方は、好きではないが……。

●広大な土地

 オーストラリアへ来たら、広大な土地を楽しむのがよい。

楽しみ方は、さまざまだろう。

しかしそれを楽しむのがよい。

 行けども行けども、牧場、農地……。

まばらに点在する羊や牛の群れ。

ときどき馬も見える。

 残念ながら今回は、カンガルーを見ることはできなかった。

そのかわり自然公園で、美しい鳥を見ることができた。

 で、その楽しみ方だが、ぼんやりとそれをながめる。

私のばあいは、そうしている。

そのうちウトウトと眠くなるが、それはそれで構わない。

それだけで心が洗われる。

 偏頭痛もちの私だが、オーストラリアを出発してから今日まで、偏頭痛は

一度も起きていない。

「心を洗う」というのは、そういうことをいう。

●独立心

 オーストラリア人がもつ独立心には、驚く。

親子でも、「つながり」は太いが、まるで他人。

そういうつきあい方をする。

 アデレードには、友人の母親もついてきたが、みな、別々のホテル。

息子や娘の住む家もあるが、そこには泊まらない。

息子や娘も、親を泊めようという意識さえない。

日本人の私には、何とも殺伐とした親子関係に見える。

が、それがオーストラリア人の生き様ということになる。

 「日本では、親子がいっしょに住むことが多い。

三世代、四世代住宅というものある」と話すと、みな、驚いていた。

●観光地

 いくつかの観光地も回った。

しかし私には、街の中の店を見て回るほうが、楽しい。

わけのわからない店を見つけるたびに、それがどんな店かを聞いた。

それが楽しい。

 ただ、どの店も、ガラ~ンとしている。

客の姿など、めったに見ない。

メルボルンでも、ボーダータウンでも、またアデレードでも、そうだ。

日本風に言えば、「よくやっていけるな」となる。

 わずかな客を相手に、太々(「細々」ではない)と暮らしている。

「ラッキーカントリー」とはよく言ったもの。

穴さえ掘れば、彼らは生きていくことができる。

国中、鉱物資源だらけ。

●韓国製

 現在、オーストラリア第一の貿易相手国は、中国になっている。

数年前に、日本は追い抜かれた。

中国の巨大資本の進出も目立つ。

その日本のあとを、韓国が追い上げている。

それが現在の、オーストラリアということになる。

 「日本は何をしているのだ!」と叫びたくなるほどの、体たらく。

日本は「馬力」そのものを失ってしまった。

が、これだけは言える。

 日本人は、とくに日本の若者たちは、今に見る日本の繁栄は、永遠のものと

思い込んでいるかもしれない。

食料にしても、天から降ってくるもの、と。

しかし今に、日本の「円」は紙くずになる。

すでにここ数日、その徴候が現れてきている。

へたをすれば、国家破綻(デフォルト)。

 では、どうするか?

日本は「人材」で勝負するしかない。

それを支えるのは、教育しかない。

そういう現実、つまり教育の重要性がまるでわかっていない。

●日本の教育

 今の日本は、「たくましい子ども」を育てる構造になっていない。

まわりを見ても、キバを抜かれた、おとなしい子どもばかり。

むしろ腕白で、自己主張のはげしい子どもを、避ける傾向にある。

親たちの間でも、嫌われる。

 が、日本を一歩出れば、そこは海千山千の世界。

そんな連中を相手に、これからの日本人は、どう戦っていくというのか。

 で、韓国製の話。

今、韓国は、「この時」とばかり、日本の追い落としにかかっている。

竹島(独島) に、放射能見地装置を設置したり、放射能漏れを韓国政府に

通知しなかったと怒ってみせたり……。

あのトヨタのプリウス問題のときは、韓国紙はこう書いていた。

「こんなチャンスは、いつまでもつづくはずがない」と。

 このホテルのテレビは、ヒュンダイ製(韓国)、大型クーラーは、LG(韓国)。

駐車場には、まだ少数派だが、ヒュンダイ(韓国)の車も目につく。

 日本はこういう現実を、もっと知るべき。

知った上で、教育論を組み立ててるべき。

【アデレードからシンガポールへ】

●帰りの飛行機

 もう帰りの飛行機。

3月30日に日本を離れ、今日は4月6日。

名古屋に着くのは、明日。

4月7日。

 空港で、ボブとジューンに別れを告げる。

目頭が熱くなる。

昨日は、4時間をかけ、ボーダータウンからアデレードまでやってきた。

美しさでは、世界でも3本の指に入る。

美しい都市である。

 眼下には、すでにオーストラリア大陸が見える。

その右には水色の海。

淡く深みのある水色が、美しい。

ワイフは先ほどから、窓の外を見つめている。

しばらくすると、「赤い大地が見てきた」と言った。

「イグアナの背中みたい」とも。

●生活水準

 生活水準とは何か。

オーストラリアへ来るたびに、それを考える。

考えるが、そのたびに、日本はいったい何を求めてがんばってきたのか、

それがわからなくなる。

 たとえばおとといの朝(3月4日)、ジューンといっしょに、朝の散歩会に参加した。

45分ほど、ボーダータウンの街の中を歩いた。

そこでのこと。

私たちは広い公園の中を歩いていた。

小さなポールが立っていて、そこには犬の糞を始末する袋がつりさげられていた。

両手で引っ張ると、ボックスの中から、ショッピングバッグのようなものが出てくる。

犬の糞を、それに入れて始末する。

 それを「生活水準」という。

生活の「質」という。

●シンガポール航空

 再びシンガポール航空。

A330-300。

今日の便は、ほぼ満席。

サービスのよさでは、オーストラリア人でさえ、太鼓判を押す。

空港には、あるべきはずの日本の飛行機は一機もなかった。

羽田行きのANAは、キャンセルになっていた。

かわりに、シンガポール航空の飛行機が、数機翼を連ねていた。

シンガポールのチャンギと、日本の羽田。

位置的には、ヨーロッパへ行くなら、羽田回りのほうがよい。

それがチャンギ。

 若いころの私なら、かなり悔しがっただろう。

が、今は、ちがう。

おかしなニヒリズムが私の心を支配している。

「どうにでも、なれ!」と。

若い人たちのBLOGを見ていると、私たちの世代はすでに、「ゴミ」。

好き勝手なことを書いている。

 そういう若い人たちに現実を教えるためには、彼らを一度、「どん底」へ落として

みる必要がある。

つらい選択だが、そうするしかない?

高校生でも、私が、「日本は……」と言っただけで、眉をしかめる。

「ダサい!」と言って、はねのける。

「日本」を論ずることさえ、忘れてしまった。

●みやげ

 いつものことながら、今回も、みやげで困った。

どれも中国製。

「これは!」と思って手にしたものでさえ、中国製。

アメリカでもそうだった。

 オーストラリアで中国製のみやげを買って帰る。

何ともバカ臭い話。

が、それを嫌っていたら、何も買えない。

私とワイフは、スーパーマーケットを回りながら、日常的な食料を買い、それを

みやげにした。

●モーテル

 昨夜はモーテルに泊まった。

ボブが気を利かせて、料金が安いモーテルを選んでくれた。

私としては、アデレード一の、たとえばヒルトンホテルかどこかに泊まるのも一案だった。

最後の夜だった。

それに旅費だけでも、2人分で、28万円弱。

ホテル代をケチっても意味はない。

 しかし友人の気遣いを無視するわけにはいかない。

「ありがとう」と言いながら、友人のやさしさに感謝した。

●観光地

 見慣れない鳥、見慣れない植物。

そういうものを見ているだけで、楽しい。

オーストラリアにももちろん、観光地というのはある。

古い村とか、原始的な大木とか……。

 メイは、「ハサミの突き刺さった木」を案内してくれた。

メイというのは、ボブの前の妻。

今は、ボーダータウンの診療所で医師をしている。

「ハサミの突き刺さった木」というのは、昔、羊飼いたちが、羊の毛を刈ったあと、

ハサミを投げて遊んだ木である。

ダーツのようにして、的に当てて遊んだ。

ところどこにそのハサミの残骸が残っている。

そういうのが、このオーストラリアでは、観光地ということになる。

 「そんなものが?」と思う人も多いかもしれない。

私もそう思った。

日本で観光地と言えば、……そんなことは、ここに書くまでもない。

●睡魔と空腹感

 飛行機は今、赤い大地の上を飛びつづけている。

地表近くを、白いモヤがただよっている。

このあたりまでくると、農場の区画はもう見えない。

荒れた大地。

そんな感じがする。

時刻は、……アデレードを飛び立ってから、もう1時間10分。

 行けども行けども、広い大地。

気が遠くなるほど広い、大地。

ワイフは、先ほどから映画を観ている。

昼食が配られ始めた。

睡魔と空腹感が、同時に私を襲い始めた。

「昼食をとったら、眠ろう」。

今、そんなことを思った。

●未来

 食事後、飛行機の中で一眠りした。

気持ちよかった。

目を覚ますと、ワイフが横から、「トイレに行ってもいい?」と聞いた。

しばらくがまんしていてくれたらしい。

飛行機の座席は、狭い。

 時刻は南オーストラリア州時刻で、午後4時12分。

もう4時間も乗っている。

4時間も、オーストラリアから遠ざかった。

 「夢のような……」という言い方は、いつも大げさな感じがする。

しかし41年前のオーストラリアは、私にとっては夢のような毎日だった。

それがそのままそこにあった。

 古い建物をそのまま残すというのは、そういう意味でも大切なこと。

新しいものがつねに古いものの上に成り立つなら、「今」もやがて破壊される。

もしそうなら、「今」を生きることさえ、無駄になる。

「今」がつねに「未来」の犠牲になってしまう。

……現実はそうかもしれないが、老人にとっては、それほど過酷な世界はない。

「今」が「未来」に残るという可能性があるから、またそれを信じているから、

私たちは未来に希望を残して生きることができる。

 インターナショナル・ハウスや、メルボルン大学のほかのカレッジは、そのまま

残っていた。

それ自体が、私に大きな安心感を覚えさせた。

もちろん多くの近代的なビルも、たくさんふえていたが……。

●不規則性の中の規則性

 

 機体はインドネシア上空にさしかかったはず。

シートベルト着用のサインが点灯すると同時に、飛行機が大きく揺れだした。

この文を叩くのが、難儀に思われるほど揺れだした。

 刻々と飛行機の位置が座席の前のディスプレイに表示される。

飛行機は今までの直線的な飛行をあきらめたのか、大きく左へ旋回し始めた。

理由はよくわからないが、気流がかなり荒れているらしい。

窓をあけてみると、下にインドネシアの島々が見える。

オーストラリアとちがい、濃い緑に包まれた島々だ。

その上に、島のような白い雲のかたまりが、ボコボコとあちことで天に向かって

伸びている。

日本で言う入道雲のようなものか。

それが全体として、遠くから手前に向かって、ゆるやかな円弧を描いている。

 不規則性の中の規則性?

不可実性の中の確実性?

人間の生活に似ている。

みなそれぞればらばらなことをしながら、結局は一定のワクの中で生きている。

生と死は、それを永遠に繰り返しながら、そのあとに無数のドラマを残す。

●聖地

 今回の旅行は、私にとっては、聖地めぐりのようなものだった。

だれにでも、心の聖地がある。

神聖にして侵すべからざる聖地。

 キリスト教徒がキリストの生誕地を求めるように、私はいつもあのハウスを、心の

聖地としてきた。

私はあのハウスから始まり、結局は、そのハウスから一歩も外に出ることはなかった。

それが今回の旅行で、よくわかった。

 ただひとつだけ大きくちがうのは、ワイフがずっと横にいたこと。

あのころの私は、見た目には派手な生活をしながら、いつも寂しかった。

その寂しさがなかった。

 ワイフにしてもそうだろう。

私がこんな私だから、私に近づくことさえできなかった。

だからアデレードに着いてから、こう言った。

 「メルボルンを離れるとき、涙が出た。

あなたの人生が、ここにあると、やっとわかったから」と。

●ドラマ

 私も63歳。

得たものも多いが、同時に失ったものも多い。

そのままのものも多い。

大切なことは、失ったものを嘆かない。

得たもの、残ったものを大切にして生きる。

 友人の中には、妻を失った人、離婚した人、子どもと疎遠になった人、さまざまな

人がいる。

消息をたずねると、いろいろなことがわかった。

それが祖父母と息子や娘、さらに孫と、層を重ねるように複雑にからみあっている。

表面的にはともかくも、みな、懸命にそれと闘いながら生きている。

若いころは羽振りのよかった人も、今は、年金生活。

そんな人もいた。

それも今回の旅行でよくわかった。

●日本へ帰る 

 もうすぐ日本へ帰る。

「日本よ、さらば!」と言って、日本を出た。

その私が再び、日本に戻る。

日本人に戻る。

 原発問題。

経済問題。

この2つが、またまた大きなテーマになりそう。

本当なら、相手にもしたくないような小さな国だが、相手にするしかない。

相手にされないとわかっていても、相手にするしかない。

小さな国といっても、その小さな国で、私はさらに小さい。

 あたりを見回しても、左前の席に座っているアジア人をのぞいて、みな欧米人。

髪の毛の色と太さがちがう。

この中で、いくら私が声高に、自分を主張しても、だれも耳など傾けてくれないだろう。

私は私で、小さな日本人として生きていくしかない。

遠い遠い道を残しながら、生きていくしかない。

 何かをしてきたようで、結局は何もできなかった。

今度の旅行は、それを私に教えてくれた。

あとは落穂拾いする女性たち(ミレーの絵画)のように、残り少ない人生を、より

有意義に、楽しく生きていくしかない。

 つぎはx月に、アメリカに住む二男をたずねてみる。

先日電話で、二男にそう約束した。

(2011年4月6日、日本時間、午後4時10分。チャンギ空港着陸を目前して)

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司

« ●3月30日号(マガジン) | トップページ | ●オーストラリア旅行補記 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ●オーストラリア旅行(2011-3月):

« ●3月30日号(マガジン) | トップページ | ●オーストラリア旅行補記 »

無料ブログはココログ